やましげです
やましげおじさんです
先月38歳になりました
間違いなくアラフォーです
めんどくさいので来年40歳でいい位です
僕が思い描いていた大人とは全く違う大人になってしまいましたが、そもそも僕が思い描いていた人生と全く違う人生を歩んでいるので気にしません
もっとわがままに、もっと自分勝手に、もっと自由に生きていきたい
そして勝手に躓いて、勝手に転んで、勝手に怪我をして、皆に笑われて生きていきたい
そんな自分を笑っていられたら本望
さて、東日本大震災から一年経ちました
去年の3月11日
僕は仕事が早く終わり池袋のゲームセンターで一人で遊んでいました
そこで地震に遭ったのです
外へ出ると道に人が溢れていました
幸い家が近所だったので歩いて帰りました
家にたどり着いた時の安心感は今も覚えています
何が書きたい訳でもありません
何かを伝えたい訳でもありません
ただこの機会に僕の見た事を話してみようかなと思っただけです
もし不快な気持ちになる方がいたら申し訳ありません
この先は読まないで結構です
すいません
先程も書いた通り、震災当日東京にいた僕は、これといった被害はありませんでした
ただただテレビで信じられないような津波の映像や原発のニュースを見ているだけの傍観者でした
4月に入り、僕が一番信頼し尊敬している友人から連絡をもらいました
彼は、とあるラジオ番組のパーソナリティをやっています
その彼が東北のリスナーに会いに行くので一緒に行かないかと誘ってくれたのです
少なからずその番組に関係していた僕は一緒に行く事にしました
そして結果的にこれまで三度東北の地を訪れました
たったの三度です
様々な出会いがあり、様々な経験をしました
仙台で一人の少女に会いました
大学生の女の子です
津波で親を亡くし親戚の家に身を寄せているその子に、僕は最後までかける言葉を見つける事が出来ませんでした
街の人混みに紛れていく彼女の後ろ姿を僕は生涯忘れられないと思います
あんなに悲しい後ろ姿を見た事はありませんでした
避難所で暮らしている少年に出会いました
迫り来る津波から母親と共に車で逃げてきた事を語る少年の目は何よりも真実を語っていました
現場の自衛隊員が本当に頼もしく見えました
牛タンが涙が出るほど美味しかったです
福島で少年と行ったボーリング場はレーンがガタガタで全く新しいスポーツでした
どう投げても左のガターに落ちるボールをみんなで必死に攻略しました
夜、道に迷い原発の立入禁止区域まで行ってしまった時に優しく道を教えてくれたのは、遠く西日本から警備に来ていたお巡りさんでした
人のほぼいない雨の飯舘村が本当に寂しそうでした
町や村も人がいて初めて呼吸をするんだと知りました
南相馬で食べたバーベキューは美味しくて、お酒はどこで飲んでも僕を楽しい気分にさせてくれました
通い慣れた学校では授業を受けられず、みんなで自分の学校から他所の学校までバスで通学する生徒に会いました
友達が何人も遠くに行ったと聞きました
地元を離れた為に転入した高校が進学校で勉強についていけないと悩んでいる高校生が、それでも勉強出来るのはありがたいから頑張ると言っていました
手術したばかりの利き手に包帯を巻いていました
福島の繁華街を歩いていたら地元の方に声をかけられ「なんでいるんですか!?怖くないんですか?」と言われました
あの時僕が返した言葉が正解だったのか、正直な気持ちだったのか、いまだに解りません
何が言いたい訳でもありません
ただ僕が経験した事を書いているだけです
何を伝えたい訳でもありません
僕はそこでも傍観者だったのですから
一年前のあの日から僕は何も変わらないのです
とてもじゃないが僕は「絆」なんて言葉を口には出来ない
僕のする仕事で誰かに勇気を与えられればなんておこがましい気持ちもない
これをあなたが読んでくれているように
またどこかで誰かと出会えたらそれだけで良い
それにどんな意味があるって訳ではなく
ただただ僕が望む事なのです
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